研究内容

1. 圧力作用の基本原理と圧力生理学 "Piezophysiology"

1.1 圧力作用の基本原理

 圧力の作用原理は言葉より式の方がわかりやすいので、図1にまとめました。式 [1] で示すように自由エネルギー変化は体積項とエントロピー項からなり、状態変化は体積×圧力(=仕事)とエントロピー×温度(=熱)のバランスとして記述されます。系の自由エネルギー変化は常に負なので、温度一定で圧力が高くなれば体積は負になり、圧力一定で温度が高くなればエントロピーが正になるのが熱力学の要請です。圧力効果を考える上で最も大事なのが式 [2] と [3] です。ΔVは反応体積(reaction volume)で平衡にある二状態間の体積差を表します。ΔV≠は活性化体積(activation volume)で反応分子が遷移状態(活性錯合体)を形成したときの体積変化量を表します。ΔVが負の場合は加圧すると平衡は右側に、ΔV≠が負の場合は加圧すると反応速度が増しますし、符号が正の場合はこれと全く逆になるわけです。例えば、アクチンの脱重合やリボソームの解離ではΔVが大きな負の値を示すので(それぞれ−9〜−328 ml/molと−242 ml/mol)、加圧すると著しく脱重合や解離が進みます。一方、サーモライシンの活性はΔV≠が負なので(−71〜−95 ml/mol)、加圧すると反応が加速することになります。

 このように、平衡や化学反応にはもともと体積の変化が伴っていて、圧力をかけて初めて定量化されるのがおわかり頂けると思います。式 [3] に基づいて、酵素の反応速度が圧力でどれくらい変化するのかを大気圧と100 MPaの比(k100 MPa/k0.1 MPa)で比較してみましょう。25°Cで活性化体積が−20 ml/molの場合、100 MPaかけると反応速度は2.26倍になりますが、−100 ml/molの反応なら約60倍、−300 ml/molの反応なら約21万倍に加速されます。21万倍は大気圧下で1年かかる反応が100 MPaかけると2分30秒で終了することを意味します。大気圧下で現実的に起こりえない反応でも、加圧により真に進行することもあるのです。なお、科学論文では圧力の単位としてPa(パスカル)を用いるので、以後それに則って表記します。0.1 MPa(メガパスカル)= 1 bar = 0.9869 atm(気圧)= 1.0197 kgf/cm2で、これがほぼ大気圧です。10 MPaなら約100気圧、100 MPaなら約1000気圧で水深10,000 mに相当します。世界最深部マリアナ海溝に棲む生物は1トン/cm2の圧力にさらされているのです。


図1.圧力作用の基本原理


 ギブスの基本式から出発すると、系の自由エネルギー変化は

  dG = Vdp−SdT  [1]

で表されます。ここで、Gはギブスの自由エネルギー、Vは体積、pは圧力、Sはエントロピー、Tは絶対温度です。

  Tが一定だと、∂G=V∂p 従って、(∂G/∂p)T = V

  pが一定だと、∂G=−S∂T 従って、(∂G/∂T)P = −S

となり、圧力をパラメーターとすると体積が、温度をパラメーターとするとエントロピーが求められます。

  ΔG = −RT lnK

なので、(ここでRは気体定数、Kは平衡定数)

  (∂lnK /∂p)T = −ΔV/RT [2]

こうして、平衡定数の圧力依存性を調べれば反応体積 (Reaction volume) ΔVが求まります。

一方、酵素反応の場合、これらの式のKを速度定数kcatに置き換えると、

  (∂lnkcat /∂p)T = −ΔV≠/RT [3]

となり、酵素基質複合体が活性化状態を形成するときの体積差として活性化体積 (Activation volume) ΔV≠が求まります。



1.2 圧力生理学"Piezophysiology"

 圧力と化学物質の決定的な違いは、圧力作用は可逆的で系に何ら因子を加えず、除圧すればもとに戻せる点にあります。しかもその作用は、どんなに系が大きくとも瞬時に均一に伝わる点で温度とも異なり、物質生産の立場からすると非常に便利です。温度と組み合わせれば膜の状態をかなり幅広く、しかも履歴を残さずに制御することもできます。こうして考えると、圧力は全般的に確かに生物にとって抑制的ですが、うまく条件さえ整えてやれば、さまざまな細胞機能を新たな角度から探るパワフルなツールとなりえます。私たちはこうした取り組みを“圧力生理学Piezophysiology”と称して研究活動を実施しています。圧力という未知なるファクターが細胞という複雑なシステムにどのような影響を及ぼすのか?圧力を使って何が解き明かされるのか?圧力生理学の課題は無数に残されていますが、酵母の分子生物学が基本的概念を構築する上で大いに威力を発揮することは間違いありません。このページをご覧になった方が圧力研究に興味を持ってくれたら幸いです。